わたしたちは誰もがこの世界にいて在ると思うもの・・・その答えは様々な苦労等の試練を通して必要に応じて「求めよ さらば 与えられん」の言葉どおりに自分に見合ったように少しずつ開示される・・・
この数年・・・わたしという存在について・・・想うことが何度もあった・・・
人間の限られた心や気持ちでは到底・・・答えなどはみつけられるものではないことをその都度、知り・・・ほんの少しばかりの永遠の生命(いのち)についての知識や認識に委ねるしかないことをあらためて知るの繰り返しをどれくらいして来ただろうか・・・
私自身にまだまだわからないたくさんの深遠な無限の霊的なことはある意味においては冒険にも例えられるのかも!? ・・・と思うことがあるのです。
私達が、ただ・・・体験をしているということについてなら少しだけ私なりに理解できたようにも思うのです。
それらの体験が自分とご縁のある方がたを通して、関わりのなかで相手の立場になって物事を考え理解し得るという、より大きな器へと寛容さが磨かれていくことを実感と共に体感することも繰り返される日々や年月に想いを馳せ・・・自ずと道のりの途中なかばではあるが感謝を思うのです。
私が数年前から度々、思い出すのは・・・天から降ろされたある霊の書(※本のタイトルを忘れてしまった)に『・・・右手がした善きことは、左手にも教えない。』というくだりの部分です。
それは一見、カンタンなように思えても・・・実際にそのようにしようと思っていてもすぐにニョキョ ニョキョ~!とエゴが鼻高々にエラそうになりそうになるのをみてゴッツン!とその思いを壊し潰す作業の繰り返しに明け暮れたこともありました(^^;
それらの繰り返しの体験等が・・・『想(思)い・行い・語る』の心のチエック!を今の私に少しずつ導いてくれたことに感謝をするのです。
が、エゴは油断をするとどこにでもおかまいなしに表出しようとあれこれ誘惑をささやこうと甘い言葉を次々に投げかけて・・・「さあ~ あなたはどうしますか!?」と選択のテストを提起されるのです。
私なりの長年の経験や体験で・・・甘い言葉や楽な方向へのささやきの多くは低我=小我の成せる業(わざ)とそれなりに知っているのでそれらを流して捨てていく選択をするようにしているが、霊的真理を学ぶ学徒には解釈の仕方で辛くも楽に成ることも少しだけ知ることとなる・・・
最近、あることで私なりの限界を感じることもあるが・・・生かされて此処に身体を持っていることに感謝をしつつ・・・誰の目にもとまらなくてもよいので私なりに私の生命(いのち)の花を身体が続く限りほんのちっちゃな花でよいのでひっそりと咲かせていけたらと思うのです・・・
大好きな1人である宮沢賢治先生の詩の一節に「・・・私は明滅する電灯の複合体・・・」というくだりがあるように・・・わたし(たち)は本当にそのとおりだと思うのは十数年前にその意味がはじめてわかった時と今も変わらない・・・
その「・・・明滅する電灯の複合体・・・」の複合体はシンプルであればシンプルであるほどに簡素化されることにも気づくのです。
今日もナチュラルにシンプルでチェンバを軽やかに私なりに舞いたいと思うものです(^^)
